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横倉城

 JR東加古川駅の北側の横蔵寺が城跡推定地。

別所頼清の後裔・野口新十郎厚躬の居城とされる。別所頼清は、戦国末期に織田信長方と争った別所長治ら別所氏の家祖とされる人物で、播磨守護の赤松氏の流れを汲む人物とされる。同じ東加古川駅近くの野口城の支城などとして存在していたのだろうか。

 境内南方の駐車場の脇に「横倉城」の標柱があり、そこから西側に向かって土塁が残っている。外側は溝で堀の名残か。

 

横蔵寺

 

 横蔵寺は曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏。播磨西国三十三ヵ所観世音霊場めぐりの第29番札所。

 十一面千手千眼観音は、鎌倉時代の仏師、運慶湛慶父子の合作と言われている秘仏で、25年毎の開帳。像の半身を互いに持ち、まだ見ぬ父と息子が一目会いたいと旅に出た運慶と湛慶。偶然出会えて、互いの半身像を合わせたところ、見事に一体の千手観音になったと伝えられる。これより人々はこの地を相通地(おおつじ)村(大辻村)と呼ぶようになった。

親子兄弟、親族に行方不明の人がある時、この観音の霊験を願って参拝する人も多いという。

 法道仙人により開基。光孝天皇の時代に祈願所となり、宇多天皇が譲位の後、出家して寛平法皇となってからは、法皇の潜邸として栄えた。広大な寺領を誇っていたが、次第に衰退し、天正6年(1578年)羽柴秀吉による三木城攻めの際、伽藍諸坊ことごとく炎上し、1堂1坊を残すのみとなった。この時、本尊である観音は空中を飛んで水葦村にある堂に難を逃れたとの伝承がある。元禄年間、姫路市景福方然室廊和尚の開山として真言宗より曹洞宗に改宗した。

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