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福山城

 新規の築城としては近世城郭で最も新しい。輪郭式の平山城で、2重の堀や瀬戸内海へ通じる運河を持ち五重の層塔型天守と7基の三重櫓を有する大規模な城郭であった。

 元和5年(1619)徳川家康の従兄弟である水野勝成が西日本の外様大名への抑えとして10万石で入封。元和8年(1622)完成させ、城下町を福山と名づける。

 水野勝成→勝俊以下4代水野家→松平忠雅→阿部正邦→阿部正弘など大政奉還まで阿部家。

 慶応4年(1868年)新政府軍が西国における幕府側の重要な拠点だった福山城を攻撃。この時、大砲による攻撃で天守に弾痕ができた。戦闘が本格化する前に恭順を許される。

 昭和初期までにほぼ全ての堀が埋められ、三の丸は大半が市街地と化す。石垣は本丸と二の丸の大部分と三の丸のごく一部が現存。三の丸南側はJR福山駅が東西に貫いている。

 現存する建造物としては伏見櫓と筋鉄御門(共に国の重要文化財)があり、伏見櫓は福山城の築城時に伏見城から移築されたもので、現存の櫓では最古の建築。

 昭和20年(1945)福山大空襲により天守などが焼失。昭和41年(1966)天守、月見櫓、御湯殿が復興された。

 

宮本武蔵腰掛石

 水野家と親交のあった宮本武蔵が福山を訪れた際に腰掛けたといわれる石。現在は備後護国神社境内にあるが、元々は三の丸南側の家老「中山将監」屋敷の庭園(現在の福山ニューキャッスルホテル周辺)にあったらしい。なお、宮本武蔵は大坂の役では水野家の傘下で行動しており、中山将監の三男(三木之助)を自らの養子に取るなど深い縁があった。

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