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勝竜寺

 勝竜寺城は京都盆地の西南部、小畑川と犬川の合流地点に位置し軍事・交通上の要衝であった。城名は付近の同名古刹(勝竜寺)に由来する。

 康正3年(1457年)山城守護畠山義就が郡代役所として築城したとされる。戦国時代末期には松永久秀、三好三人衆の属城となる。

 上洛を果たした信長は、自身5万を率いて勝竜寺城を攻撃。三好三人衆は織田方の大軍を前に降伏・開城し(勝竜寺城の戦い)、芥川山城、越水城、高屋城も次々攻略され、阿波に逃亡している。

 元亀2年(1571年)信長の命で細川藤孝が城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城として有名で、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)がここで新婚時代を過ごしたとされる。 その後細川氏は丹後に移封、村井貞勝の家臣矢部氏が城主となったが、天正10年(1582年)本能寺の変によって明智光秀の属城となる。山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に一旦帰城するも、坂本城へ落ち延びる途中で落命。その後城は一旦荒廃する。

 寛永10年(1633年)永井直清が封ぜられ、荒廃していた城の修築を行うが、慶安2年(1649年)直清が摂津高槻藩に転封されると完全に廃城となった。

 1992年(平成4年)勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。

 主郭部分は長方形をしており、虎口部分が枡形となっていた事が明確で、織豊系城郭の特徴を示している。東、北側には水堀を残している。また東、西、北の三面には土塁が残っており、西側土塁は規模が大きい。また主郭の西側には「沼田丸」という曲輪があり、藤孝の妻の実家であった沼田氏の屋敷があったとされる。主郭部分より北東に200mの地点に神足神社があり、土塁と空堀がある。城の北方防御であったと思われる。

JR長岡京駅下車、徒歩約10分勝竜寺城公園に数台の無料駐車場が有る。今回は淀城から歩いたが、さすがに疲れた。

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