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 淀は「与渡津」と呼ばれ、古代から諸国の貢納物や都に運ばれる産物が着く商業地であった。また、河内・摂津・大和方面から山城・京に至る要衝であった。

 宇治川、桂川の合流付近の川中島、現在の京都市伏見区の京阪電鉄淀駅の南西に位置する。織豊時代、豊臣秀吉が側室茶々の産所として築かせた淀城はこれとは別物で、北へ約500メートルの位置にあった(淀古城)が、秀次事件の際に廃城となっている。

 1626年(寛永3年)徳川木幡山伏見城の廃城により、代わりに幕命で松平定綱が築城。城主:松平定綱→永井尚政石川憲之戸田光熈松平乗邑→1723年(享保8年)稲葉正知、以降幕末まで稲葉氏。1756年(宝暦6年)落雷により天守や建物の大半が焼失し、再建されなかった。

 幕末、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとするが、淀藩に拒絶された。この時の兵火で城下町と城内の一部が焼亡した。

 淀城東部にあった巨椋(おぐら)池の干拓によって地形が大きくかわり、本丸の一部を除いてすべて破壊され、さらに本丸南東部を京阪本線が貫通するに及び、淀城の消滅は必至となるが、保存運動が高まり、今日は開発の手を免れた石垣及び堀が淀城跡公園として整備されている。京阪電車の淀駅高架化事業に伴い淀城公園も再整備される計画がある。

・城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城であった。古代中国の都城のような構造を持っていた。

・西と北側に大型水車が2基設けられていた。

・天守は5重5階の望楼型だったらしい。

 少し前までは淀駅ホームから石垣が至近距離に見えていて、競馬帰りのおっさんには見向きもされない存在だった。そういえば京都競馬場の内馬場にある池は、淀城の水堀の一部だったと勝手に妄想。

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