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国府山城

 別名は妻鹿(めが)城(功山(こうやま)城とも)。市川沿岸にある標高102mの甲山の山上にあった。

 妻鹿孫三郎長宗は元弘の戦(1330年頃)で赤松円心に属し立てた功により妻鹿地方を領有、ここ功山に築城した。

 天正元年(1573)黒田職隆が姫路城から功山城に移り居城とする。天正8(1580)年三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は、三木城を居城としたが、職隆の子・黒田官兵衛孝高は三木城は戦略的に不備であると進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、功山城に移った。 

 天正13年(1585)職隆が没した後、廃城となった。職隆の廟所は妻鹿町内にあり、地元では「筑前さん」と呼ばれ、今なお親しまれている。

 甲山経塚は甲山の山頂部の突端で昭和42年に発見された。経塚とは経文を容器(経筒)に入れて土中に埋納した遺跡の事で、経典を後世に伝えその仏教的な作善行為によって極楽往生を願ったもの。調査で土師質外容器・経筒、須恵器甕、青白磁合子、泥塔、銅鏡、銅銭などが出土した。このうち泥塔は塔身に二仏の坐像が陽形の笵で浮き出されている。同一型式のものが甲山南麓の荒神社に御神体として祀られていた。

 母里太兵衛(もりたへえ)は、黒田二十四騎の中でも更に優れた8人、黒田八虎(はっこ)の一人。官兵衛と長政の二代にわたり仕えた。大杯の酒を飲み干し、福島正則から名槍「日本号」を飲み取ったという逸話が、太兵衛そして黒田武士の男気を表す民謡「黒田節」として、唄い継がれている。

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