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山崎城

 別名宍粟城、鹿佐和(澤)城とも(宍粟と佐用を相和する城だからそう呼ばれたらしい)1615年池田輝澄によって築かれた平城である。 輝澄は姫路藩主池田輝政の四男で生母は徳川家康の次女督姫である。輝澄は佐用郡を加増され六万石を越えたが、お家騒動により改易。以降松平康映→池田恒元3代とつづき、本多忠英が一万石で入封し、以後明治に至る。

 

  
 山崎小学校の西隣に本多公園として整備されている。公園内に紙屋門がある。門の中は現在は歴史民族資料館となっている。山崎小学校が城館跡に立っている。
    
 門は1850年代のもので左右の土塀・石垣が1679年以前のもの。他には何も残されていない。城というより城館だったようだ。
 
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