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八尾城

 八尾は、古くは矢尾・矢生・箭尾とも書かれ、物部氏の一族で矢作りに従事した「矢作部」がいたといわれ、また尾先が八枚に分れた鶯の名所であったことから地名となったとも伝えられる。 八尾神社の社殿の横には「矢尾城址」碑がある。

 建武4(1337)年までに、八尾別当兼幸(顕幸)が築城したと考えられている。顕幸は当初北朝方として小山城の志貴右衛門などと対立していたが、正慶2年(1333年)頃には南朝方にまわり、今度は北朝方と争った。その後北朝方の攻撃により八尾城は占領された。延元2(1337)年、南朝方の小山三郎左衛門忠能、高木八郎兵衛遠盛らの軍勢が猛攻して八尾城を奪還したが、その後、南北両軍によっての争奪が繰り返された。

 正平23(1368)年、北朝方の細川頼之が軍勢を率いて八尾城を包囲。守将の酒邊延綱らはよく防戦に努めたが、衆寡敵せず八尾城は落城した。

 

 織豊期には、三好義継の家臣、池田丹後守教正(摂津池田城主の池田氏とは別族か)が居城したが、教正は野間・多羅尾氏と共に信長に内応した。キリシタン大名である教正は若江三人衆の筆頭として、石山本願寺攻めの際には若江城の守将となっていたが、戦後八尾城に移った。教正が「本能寺の変」後に仕えた池田恒興(別族の美濃池田氏。ややこし汗)が美濃岐阜城へ転封されるとそれに従い、八尾城も廃城となったと考えられる。

 彼は、恒興が小牧長久手の戦いで討ち死に、危機的状況の中果敢に敵兵に突撃し脱出、武名を上げた。その後秀次事件に巻き込まれ処刑された。

 

 大坂夏の陣では、長宗我部盛親藤堂高虎がこの近くで戦い、八尾城の堀跡が戦闘に利用された。

 

 八尾城の所在地は2説あって、実際の所在地は判明していない。

一つは八尾神社・常光寺を含む西郷から木戸にかけてが城址、とする説。これとは別に、別宮から八尾座にかけて築かれていたとする説が存在する。

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