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端谷城

 端谷城は神戸市内で最も保存状態が良好な山城で、当時の櫨谷の状況を知ることのできる貴重な遺構だ。中世の山城の形態をとり、ざっくり北に本丸、その南に二の丸、西南尾根曲輪、三の丸から成る。三の丸と二の丸の間を隔てる堀切は、残存具合が良好で必見の価値あり。

 

 築城年代は不明だが、鎌倉時代中期頃には、衣笠氏がこの地を治めていたと伝わる。衣笠氏は、赤松氏の出身。衣笠五郎左エ門範弘は、置塩城の赤松氏が浦上氏のせいで衰えたとき、赤松氏に忠義を尽す。また、将軍・足利義晴が幼少の頃、自分の館に匿ったことも。東播磨の別所氏が力を持ち始めるとこれに属した。

 

 範弘の子・衣笠豊前守範景は、領民を広く愛し、仁政を施した。天正6(1578)年、織田信長の配下、中国方面の将・羽柴秀吉が三木城の別所氏と対立すると、衣笠範景は淡河の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として秀吉と対峙する。

 

 野口、神吉、志方、高砂、淡河の諸城とともに、別所氏幕下の有力な支城として機能。範景は領内の各砦を固め、櫨谷の在の百姓たちもともに籠城し、津村市助らが奮戦したため、天正8(1580)年三木城が落城するまで、端谷城も落ちなかった。

 

 落城後、廃城となる。

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