top of page

石弾城

 かつて加古川市加古川町あたりは雁南荘と呼ばれ、雁南氏が地頭として入り、赤松氏に従っていた。長禄2年(1458)赤松政則が赤松氏再興を果たしたが、石弾城自体は山名氏との抗争の過程で、山名宗全により落城したものと思われる。

 

 雁南氏のその後はよくわからないが、政則に仕えた英賀(あが)城主・通安は雁南氏から養子を迎えており、雁南氏も存続はしていたのだろう。城主は、大井三樹伊豫守宰任従五位左京亮で、暦応2年8月30日雁南荘地頭職を給わり、この城の居を構えた。次宰の五男に雁南右衛門四郎勇という者がいて、永和元年5月5日父の跡を継いだ。正六位に任じられ、右馬助と号し赤松氏に従っていた。この勇の長男に雁南刑部太郎長という者がいて、享徳5年家督を継いで木村源五郎と号した。父にしたがって武功があったが、康正元年父勇討死の後、なおこの石弾城を固め守っていたが、長禄元年3月、山名宗全に攻められ討死して遂に落城した。


泊神社

 神代に伊勢神宮の御神体の一つである御鏡がここに泊まり着いたことから泊神社が起こったといわれている。祭神は、天照大神・少彦名神(すくなひこなのかみ)・国懸大神(くにかかすのおおかみ)。現在の社殿は、承応2年(1653)宮本武蔵の養子、宮本伊織が改築した時のものといわれている。境内は広く、南北朝時代の石弾城(いしはじきじょう)の石垣と思われるものや宮本伊織寄贈の花崗岩製の灯篭、市指定文化財の36歌仙図絵馬が残っている。

bottom of page