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加古川城

 鎌倉時代に加須屋氏(糟谷)によって築城か。 藤原氏の末裔という糟谷氏は相模国大住郡糟屋荘発祥。源頼朝に属して平氏討伐に功を挙げた糟谷有李が、播磨国印東郡南条郷を得た。

 

 天正5年(1577年)羽柴秀吉が播磨へ侵攻して大半の勢力を味方にし、翌6年再び播磨に入ると加須屋館(加古川城の前身)で播磨国人衆を集めて評定が行われた(加古川評定)。この軍評定が別所氏の離反をまねき、三木城合戦のきっかけとなったと云われる。

 

 別所方を離れ、羽柴方についた播磨国住人・糟谷助右衛門(武則)は、秀吉につき従って小姓頭となり、後の賤ヶ岳合戦で七本槍の一人と数えられる武名を上げ、加古川城を居城として三万五千石を領した。

 

 そののち、関ヶ原合戦で西軍に属したため、改易され廃城となった。

 

七騎供養塔

 

 文政3年に建立されたもの。南北朝時代、興国2(暦応4)年(1341)塩冶高貞が、讒言により京を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、米田町船頭の附近で足利尊氏の軍勢に追いつかれた。弟の六郎ほか郎党七人が主を討たせまいとして、この地に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦ったが、遂に全員討死した。

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