top of page

備中松山城

 国史跡。江戸時代に建造された天守・二重櫓・三之丸土塀が重要文化財。標高430mの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城として最も高い所にある。

 仁治元年(1240)秋庭重信が大松山に築城。元弘年間(1331年頃)高橋宗康が小松山まで城を拡張した。城主;上野氏→庄氏→三村氏。

 戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城に。元亀元年(1570年)元親は備前に侵攻してきた宇喜多直家を迎え撃つため出撃した隙に、庄氏に城を占拠されたが、翌年には奪還した。

 天正2年(1574年)元親が毛利氏から離反し織田信長に寝返ったため、三村氏と毛利氏の争い(備中兵乱)が。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害。以降毛利氏の領有となった。

 江戸時代の城主:池田氏→水谷氏→安藤氏→石川氏→板倉氏。慶応4年(1868年)戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政の陽明学者・山田方谷の決断で無血開城した。その後廃城となってからも山深い地にあったため、破却されずに放置され現存し得た。

 平成6年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。先年、大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像に使用される。岩山の上に残る城郭が真田氏の居城のイメージに近かったことから目に留まりロケ地に選ばれた。

bottom of page