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高砂城

 現在の高砂神社の場所にあったと特定されている。

 

 高砂神社に伝えられている古文書に、「輝政は、神社の北西にあった古い城跡(中世・高砂城)が地の利が悪いので今の場所に城を築いた・・・」とある。

 

 関ヶ原の戦いの後、池田輝政が姫路城の海側の守りとして築き、中村正勝を城主として入れた。この近世・高砂城は1615年 元和の一国一城令により短期間で廃城となっった。現在は埋め立て・近代化が進み名残はほとんどない。

 

 

中世・高砂城

 

 15世紀中頃、杉岡氏の城として文献に登場するが詳らかではない。

 1578年~の織田信長軍の播磨平定において高砂城は別所方に付いた。海城として播磨灘を押さえていた高砂城は播磨の最大勢力・別所氏の三木城へ食糧を海から運び入れる役割を担った。

 野口城・神吉城・志方城と、加古川・高砂地方の三木城を支える城は、次々に落され、残すは高砂城だけとなった。

 

高砂城も秀吉軍の猛攻を受けるが,城主・梶原景秀(景行)は毛利の援軍を得て、これを撃退した。

最終的に衆寡敵せず高砂城は天正7年10月頃、秀吉に降ったと思われる。

 

この中世の高砂城の位置は特定されていない。

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