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広島城

 別称は鯉(り)城。名古屋城、岡山城と共に日本三大平城と言われる。

 戦国時代毛利元就が武田氏を滅ぼし厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利、以降当地は毛利氏によって支配されてきた。天正末期になり天下が安定すると山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなった。

 毛利輝元穂井田(穂田)元清らを普請奉行として、築城を開始。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれ、縄張を秀吉の側近で築城の名手である黒田如水が思案した。1598年(慶長5年)天守が創建。「広島」という名はこの頃に付けられた。

 関ヶ原の戦い後、1600年(慶長5年)福島正則が城主となる。福島氏時代、外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある広大な城となった。

 1619年(元和5年)正則は信濃国川中島へ転封され、浅野長晟が入城。以降は浅野氏12代の居城となり、明治時代に至る。5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。

 1868年(慶応4年)戊辰戦争になると広島藩は新政府軍として戦ったため、城に被害はなかった。結局、築城から江戸時代の間、この城は一度も戦の舞台にはならなかった。

 近代は軍都広島の中心施設であった。日清戦争時に、本丸に大本営が置かれたという稀有な歴史を持っている。太平洋戦争末期まで、天守の他、江戸時代からの建物が多数残っていた。

 1945年(昭和20年)米軍による広島への原子爆弾投下。軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった。

 現在の天守は1958年竣工。本丸と二の丸と三の丸の一部が現存。城址公園域以外で確認できる遺構は、広島高等裁判所敷地内にある中堀土塁跡と、空鞘橋東詰南側の櫓台石垣程度である。

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