top of page

勝部城

勝部二、三丁目から大阪国際空港南部にかけて広がる勝部遺跡からは、弥生時代から平安時代にかけての集落、墓地、水田など、数多くの生活の跡が発見された。

 弥生時代の遺構の中でも、特に注目されるものとして、十四基もの木棺墓がある。木棺の中には、腰に石の槍先 (剣とも)が突き刺さった人骨や、石のやじりが体内から出土した人骨があり、集団間の争いで倒れた人たちだと考えられる。

 

 渡来人である勝部造(かつべのみやつこ)に従う勝部という部民をもつ名族が勝部を本拠にしていた、という説があるが定かではない。また、近くの豊中市服部(はっとり)には、渡来人の伝えた機織りや染色の技術者を率いる服部連(はとりのむらじ)という氏族がいたとされ、秦氏とも関係があるとされている。このことから、勝部も渡来人が形成した村かもしれない。

 

 戦国時代には、勝部城・刀根山城・原田城など、地主、土豪が相ついで居城を築いた。位置的な考察から一時期は原田氏や池田氏の影響下にあったかもしれない。天正元年(1573年)ごろ、荒木村重の領国となった。

 

 勝部は千里川・猪名川合流点に近く、水運の重要点であり、穀倉地帯だった。築城者:不明。城主:不明。場所:不明。城とはいっても中世期に見られるような、自然の地形を活かし丘の上に土盛りや堀切ったようなものだったかと考えられる。

 昭和40年代の大阪国際空港拡張事業にともない、かつての田園風景はほぼ無くなり過疎化が進み、昔の地形も失われた。

bottom of page