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鞆城

 天文22年(1553)頃に毛利元就の命で備後の豪族・渡辺氏が鞆要害を築く。

 天正4年(1576)には京都を追われた足利義昭が毛利氏の庇護の下で6年間滞在し、「鞆幕府」と呼ばれた。天正6年(1578)毛利氏は信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には山中幸盛(鹿介)の首級が鞆に運ばれ、義昭と毛利輝元が首実見を行った。その後、義昭は津之郷(福山市津之郷町)へ移った。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦功により、福島正則が芸備49万石の領主として広島城に入城すると鞆には重臣大崎玄蕃を入れて、3層3階の天守閣などを築き、城の修築を行った(この頃「鞆城」と呼ばれるようになった) 元和元年(1615)一国一城令により天守閣などの主要建造物は壊されたが、大手門や蔵屋敷等は残り、城の機能は保たれていた。

 同5年(1619)水野勝成が福山城主となると、鞆城に嫡男勝俊を居住させている。 その後、勝俊が2代目を継ぐと、重臣荻野重富を鞆奉行としたが、重富は城を閉じて、その北麓に新しく鞆奉行所を置いた。

 現在は鞆の浦歴史民俗資料館になっている。調査によって検出された石垣や石塁が残されている。

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