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椋橋城

 築城者は不明。平安時代、多田源氏四十八砦の一つだったとも。

椋橋(くらはし)荘は平安期から東・西両荘に分かれており,相伝も別々に行われた。西荘は鎌倉初期には後鳥羽上皇から上皇の寵姫・亀菊に与えられた。地頭との間に紛争を生じ、建保7年、後鳥羽上皇は地頭職の改補を要求するも時の執権・北条義時は拒否し、これが起因となって承久の乱が勃発したとされる。

 応仁の乱頃に東大寺の椋橋荘支配は衰退。応仁2年、西軍大内政弘は椋橋城に篭る東軍を破った。その後東軍が奪還し、細川勝元の臣・薬師寺与一が入り,文明2年西軍の攻撃をうけるも、被官の夜久主計允らとともに撃退した。

 天文3年、管領細川晴元と不和になった三好伊賀守利長(のちの長慶)が、浄土真宗門徒(一向衆)とともに椋橋城に立て籠り,晴元方であった伊丹衆と合戦してこれを破った。やがて利長と晴元は和睦、利長は再び晴元に属することとなり、収まらない一向宗徒は、椋橋城の三好利長を攻撃。利長は信貴山城の木沢長政を頼って逃げた。

 天正年間、池田筑後守光重(池田城城主・池田知正の弟)が嫡子誕生のため武運長久を祈り、椋橋総社に獅子頭を寄進。この頃は摂津国人・池田氏の勢力圏だったか。のち摂津の大半は荒木村重が掌握、支配する。

 荒木村重の乱・有岡城の戦いが起こると、伊丹・有岡城を包囲する城砦のひとつとなった。織田信長は、池田恒興池田元助・池田幸新(輝政でのちの姫路城主)を守将とした。天正8年(1580)その時の兵火に見舞われ、椋橋総社社殿が焼失。

 

 

城を感じさせるものは何もない。椋橋城の推定地は、旧猪名川を挟んで存在する椋橋総社・治田(じでん)寺の主に二説がある。戸ノ内と地名が残り、かつても川の中島だったと思われる治田寺又はその周辺に分がある、と感じた。あるいは摂津に多い二連一城だったかもしれない。

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