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はな治部少輔の
城攻めッ!

御着城
別名は茶臼山城、天川城とも。惣構えの平城で、三木城、英賀城と並び播磨三大城と称された。1519(永正16)年、小寺政隆が築城か。
1530(享禄3)年、細川高国と組み上洛を狙う浦上村宗の播磨侵攻によって攻められ落城し、政隆は自害する。しかし翌年に村宗、高国が敗死すると政隆の息子・則職が城主となる。則職の頃から御着城を本城、姫路城を支城としていたようだ。
1575(天正5)年、織田氏の羽柴秀吉が播磨へ侵攻する。小寺政職は家老の小寺孝隆(黒田官兵衛、のちの如水)の進言で当初は織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏離反に同調。1579(天正7)年、秀吉は別所氏の三木城を支援していた播磨の諸城を攻撃、御着城も落城した。その後廃城となった。
現在は姫路市役所東出張所・御国野公民館・御着城跡公園、南側は民家や小公園などになっている。小公園には小寺氏を祀った祠、小寺明神があり、城址公園西側には黒田孝高の祖父・重隆と母、明石正風娘の廟所がある。毎年4月29日に黒田氏、小寺氏等の末裔達が集まり、先祖供養を行っている。
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