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大可島城

 現在は陸続きだが、昔は島だった。今日、鞆港の入口に臨む岬の突端にあり、港町から急勾配の丘となっている。

 康永元年(1342)岡部出羽守によって築かれたと云われる。同年、北朝方の攻撃を受けた伊予土居城の救援に向かった南朝方の将・金谷経氏は、逆に備後の鞆を占領し、北朝方の大軍を迎え撃った。南朝方は大可島を拠点とし、小松寺を本陣とした北朝方と大激戦となる。この間に伊予も苦戦中との報が入り、伊予の武士は本国に戻った。鞆近郷(沼隈町の石浦城主)の武士であった桑原重信は大可島城に残り、篭城。一族だけで北朝方の三千騎を受けとめ、奮戦。最後は自刃して果てたという。現在、圓福寺山門横に桑原氏一族のものと伝えられる五輪塔がある。

 貞和5年(1349)足利尊氏の庶子で弟直義の養子・足利直冬が、中国探題として鞆に赴任し、入城。しかし同年、観応の擾乱が起きると直冬も高師直の軍勢に攻められ(小烏の森の合戦九州に脱出した。観応2年(1351)上杉朝定を中心とする直義方の勢力は鞆に結集、石見から京に上る途中の高師泰の軍勢を追撃した。

 遅くとも天正4年(1576)以後、鞆浦は海賊衆・村上亮康の支配するところとなった。織田信長に京を追われた足利義昭が鞆城に逃亡してくると、村上亮康が大可島城に在城して警護した。

 関白・豊臣秀吉は、天正18年(1590)海賊停止令を発布。大可島の村上亮康も鞆を没収され、長門大津郡に移封された。関ヶ原合戦の後、安芸広島城に入った福島正則は、支城として鞆城を築城し、大可島城は廃城となった。

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