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野田・中嶋

 享禄4年(1531年)細川高国と三好元長が抗争していた中嶋の戦いで、高国と同盟関係にあった浦上村宗が野田・福島に砦を築く。

 元亀元年(1570年)畿内での勢力回復を図る三好三人衆は、野田城を増築、籠城(野田城・福島城の戦い)し、それに呼応した石山本願寺が織田家打倒の武装決起をする(石山合戦)

 天正4年(1576年)信長の猛攻により野田城は落城。両城は織田方の手に渡り第一次・第二次木津川口の戦いでは重要陣地となった。

 その後大坂の役の野田・福島の戦いにおいて西軍の大野治胤・宮島兼与が再利用して守備。大坂夏の陣以後廃城になった。

 現在、城跡を思い浮かべるものはほとんど残っていない。野田城・福島城の戦いでは8千の兵が篭城、城地は広かったと思われる。文献では「野田・福島」と併記される事が多く、両城は一体で運用されていた、あるいは摂津に多い二カ所一城だったと思われる。福島城については痕跡が全く無く、明確な場所は解っていない。

 

JR環状線野田駅下車約2~5分

 

 

 堀城(別名・中嶋城)は、阿波、堺、京都の中間地点にあり、要所だった。深井の合戦や桂川原の戦いで砦として築かれ、その後細川氏の内紛のときに細川藤賢が本格的な城郭を築いたか(藤賢の父細川尹賢説もある)

 天文4年(1535年)享禄・天文の乱で戦っていた本願寺証如と細川晴元の間で和睦が成立したが、中嶋城に籠もった一部の衆徒が細川軍と戦った。晴元の部将木沢長政に攻められて一揆衆は敗走、下間頼盛は暗殺された。近郊の大和田城もこの時築城されたか。

 天文18年(1549年)の江口の戦いでは三好長慶が三好政勝が籠城する榎並城に対する前線基地として活用した。

 野田城・福島城の戦い時、城主細川信良は織田方につき、三好三人衆の篭る野田・福島両城に対する前線基地となる。

 天正元年(1573年)足利義昭が信長と対立、義昭についた堀城は織田軍と戦い(高屋城の戦い)敗北・開城した。以降廃城となる。

 明治43年に廃川となった中津川のほとりに築城されていた。近代の淀川改修事業で大きく地形が変わり遺構や石碑は存在せず、城郭、推定地は不明な点が多い。現在の十三公園附近ではないか、と推定される。

 

阪急電車十三駅徒歩約7分

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