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 別名・安濃津城(あのつじょう)。津市街の中心部に位置し、安濃川と岩田川を天然の大外堀としていた。

 永禄年間(1558年 - 1569年)長野氏の一族の細野藤敦が小規模な安濃津城を築城。永禄11年、織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城。翌年には織田信包が入城した。信包は城郭を拡充。石垣・堀・本丸・二の丸・三の丸を整備し、5重天守と小天守を落成した。

 文禄3年(1594年)信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移され、豊臣家臣の富田一白が5万石で入城した。一白の子・信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元長宗我部盛親軍3万の軍勢の猛攻にさらされ(安濃津城の戦い)城内の建造物の大半を焼失した。奮戦の末開城したが、功が認められ戦後、江戸幕府より2万石の加増を受けた。

 慶長13年(1608年)信高は伊予宇和島藩に移封、伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石で入城。高虎は大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備した。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となった。 大坂の役で加増を受け、藤堂氏は32万3,000石の大名となった。

 天守は関ヶ原の戦いで焼失し幕府への遠慮から再建されなかったとされるが、近年の研究では富田氏が三重の天守を再建したとも。その天守は寛文2年(1662年)の火災で焼失したと考えられている。

 明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、建造物は順次破却された。その後残された西ノ丸と本丸がお城公園として整備され、昭和33年(1958年)に模擬三重櫓が造られた。現在西ノ丸には、かつて二ノ丸にあった藩校有造館の正門の入徳門が、移築現存している。

 

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