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久宝寺城

久宝寺御坊

 顕証寺を中心として発展した寺内町。平野から八尾を抜けて信貴山や奈良方面へ至る街道の中継地点にあたり、かつては在郷町としてにぎわった。

寺内町の興りは、戦国時代に蓮如が西証寺を創建したことに始まる。それ以前はこの地の土豪で畠山氏を祖とする安井氏が屋敷地に環濠を巡らせて支配していた。文明2年(1470年)に蓮如がこの地で本格的に布教活動を始めたが、当初は慈願寺を拠点としていた。文明11年(1479年)に西証寺を創建した。安井氏も創建に協力し、環濠を二重にして防御を厳重にするなど、寺内町の様相となり、戦国時代における一向宗の拠点のひとつとなった。

 寺内町の形成には、細川晴元による門徒衆の軍事動員が背景となっている。第一次石山戦争ではそれまで協力関係にあった細川氏と門徒衆が抗争し、やがて和睦。戦乱で焼亡した西証寺の再建に取りかかることになる。天文十四年に顕証寺が再建完成。現在、見られる寺内町域は、この頃に始まり永禄年間(1551~69)のものとされている。

 

久宝寺城

 室町時代に渋川満貞が城を築いたことに始まる。久宝寺は飛鳥時代に聖徳太子が創建したといわれている。渋川満貞は畠山満基の子で、渋川郡(久宝寺城周辺)を領有したことから渋川氏を名乗るようになった。満貞の嫡子・光重は播州安井郷を受領し、安井と改姓した。安井氏は河内守護・畠山氏に仕えており、1479年に蓮如が久宝寺跡地に西証寺を築く際に協力している。西証寺は周囲に環濠を設けて寺内町を形成し、その支配権は安井氏に委ねられていた。戦国時代になると安井氏は織田信長に仕えるようになったが、信長が石山本願寺と対立するようになり、1577年、一向一揆軍に攻め落とされ城主の安井定重・定正兄弟が討死した。その後安井定次は豊臣氏・徳川氏に与して領地を安堵されている。道頓堀の掘削者として知られる、安井道頓(戦国時代~江戸時代初期の商人)は、この安井氏の一族との説もある。

 寺内町はその後も存続したが、江戸時代に入り本願寺が東西に分裂すると久宝寺御坊内でも対立が生じ、一部門徒は大和川(現・長瀬川)対岸の荒地を開墾し、現在の八尾市中心部となる八尾寺内町を形成した。現在も寺内町時代の町割がそのまま残っており、環濠や土居の一部も名残を留めている。

 

 城址碑は通りから1本入り込んだ路地の角にあり、目立った目印も無いため見つけづらい。

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