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尾上構居

 尾上構居跡は尾上町長田の長田寺付近が遺構と伝えられ、東西約180m、南北約190mが想定範囲となっている。城は微高地上に営まれたと考えられている。想定範囲の北側および東側には、現在も水路が残っており、掘跡と推測されている。

 

 嘉吉の乱後の嘉吉年間(1441~1444年)の構主は、山名氏家臣・上村兵左衛門という。

 赤松家が復活すると小松原氏の庶流・加古氏が城主となる。(小松原氏から分かれて加古氏を名乗る一族の中に尾上構主、加古新構主、宗佐構主があった)

 天正年間には、それぞれ別所氏の麾下となっていた。

 

 天文11(1542)年に没した加古源右衛門幸宗、天正6(1578)年、三木城に籠城した別所氏に味方して秀吉と戦った加古瀧十郎盈斎と尾上丹波守は名が知られている。

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